ひどいパースペクティブ

主観的で読み返すとこりゃひどいという内容も残しておきたいと思い始めました。恥ずかしくても消さないというのがルール。げいじゅつか。

「逆さに吊るされた男」1

久しぶりの更新になった。

前回27歳だった私はあっという間に29歳になった。

 

それはそうと、今回はこの本を読み、文章を書きたくなったので、この本について書いてみようと思う。

 

「逆さに吊るされた男」/ 田口ランディ

 

この本は、地下鉄サリン事件実行犯で死刑囚のYとその交流者の作家の対話を描いた物語となっている。作者の実体験をもとに構成された物語。

 

重苦しい題材で時々その重すぎる対話が読書後の私の意識も襲ってくるほどに、とても脳内に入り込んでしまう「生きた文章」をかく田口ランディさんの文章は、とても魅力的だ。

 

私は文章には2種類あると思う。

「死んだ文章」と「生きた文章」だ。

文学やよくある学術的に良しとされる文章は、私の中で「死んだ文章」。冷静で、客観的で論理的で、構築された文章。作り込まれていて、隙がない。死んでいるから価値がないってわけではなくて、遠くで輝く星のように、変わらない魅力がある。

 

それに対し、「生きた文章」は、私の身体を捉える体感的な側面のある文章で、まちがっているとかただしいとかじゃなくて、そのライブ感がもたらす、そのとき感じた熱が、そのまま乗り移ったように私に伝わってくる。隙があって、無防備で。でもそれが悪いとか弱いとかじゃなく、無邪気で、命の煌きのあるようなそんな血乗っ通った文章。谷川俊太郎さんの詩もそういう感じがする。

 

エロスとタナトスのようにたぶんこれらはどっちも素晴らしいし、陰と陽の太極図ようにどちらも互いのエネルギーをはらんでいるのだろう。

 

とにかく私は文学に対して素人なので、これ以上どう伝えればいいかわからないいが、そのような後者の特徴を持った作者の文面は、一度読み始めるともう私の好奇心を掴んで離さない。本を開いたら最後、ぐっと首元をひっぱられてとまらなくなる。

 

そして、私は文章の面白さに引き込まれて、「ああわたしも文章が書きたい」そう思えてきたのだ。

文章の良し悪しは、詳しい知識と経験がないが、絵画についてはわかる。いい作品というのは、わたしも絵が描きたいと鑑賞者に思わせるのだ。見ている人の経験値がどうであれ、その人に絵を描きたいと思わせる。それは、心の底から、生命力をぶちまけて絵を心ゆくまで楽しそうに、素材を慈しむように描くから、それが作品を通してぐおんぐおん、またあるときは、すぅーっと伝わってきて。ああどうしても、私は羨ましい、そのように生命を燃やして絵が描きたい、そのように生きてみたい!!と思わせてしまうのだ。

 

田口ランディさんはとにかくそういうような、心が生きていないと、生命を燃やしていいないとかけないような、文章を書く。それが私にとってすごく魅力的な作家さんなのだ。

 

(そういえば、パウロ・コエーリョさんもそのような文章を書く、いや世界観が少し似ているのかもしれないと思った。その類似点については、また文章化してみたいと思う。)

 

私が読んだ田口さんの著書は今の所3冊。

1.「水の巡礼」2006年発行

2.「逆さに吊るされた男」2016年発行

3.「コンセント」2000年発行

 

「水の巡礼」はエッセイ的なありのまま感じたままのむき出しの文章だった。日記的で、飾らない。ある意味で、物語化しようという気がないので、なんだろう、ちっとも死んでいない。それは私にとって、普遍的な永遠の形にとどめようという駆け引きがなくてちょっと寂しすぎる。そしてセクシーじゃない。(内容はおもしろいです!)

 

最近読んだ「コンセント」は、彼女の処女作。とても読みやすくて、まとまりのある構成は、プロの小説として整えられた形跡が伝わってきた。要所要所にまとめあげるための伏線が張ってあったり、物語を一筋の繋がりにそったものにしようという配慮とやさしさが見える。でも、戦いがない。

 

それに比べると本作は、その2つの真ん中。つまり、生きている丸出しの文章と、整えられた読みやすい物語の間をどちらに偏ることなく、ふらふらと行ったり来たりしながら、偶然と必然をないまぜにしながら作られた構成は、文章としておもしろい。作家としての田口ランディさんの生き様がこれでもかと、押し出されていた。後半の、死刑囚に向けられた手紙は半ば強引で、場当たり的な展開にも思えるが、その勢いが、勇ましく、わたしはそのページをめくる手を止めることができなかった。このような予測不能な展開が、この小説を生き物のように、なんとも捉え難い性質にする。

 

勝つか負けるか、生きるか死ぬか。

 

そんな賭けのような文章表現が、地下鉄サリン事件の死刑囚のYという、複雑な人物像を語る物語上で繰り広げられる。

 

もうひとつ、「逆さに吊るされた男」を書いている田口さんの視点で興味深いと思ってる点がある。それは、「彼女はジャッジをしない」ということなのだ。ここからは多少ネタバレになるが、「Yは温厚な性格をしているが、人間の裏にある闇がYにはあったのかどうか」また、「この死刑囚は一般的な、罪を犯したことのない人々とは違う狂った、異常な部分があったのかどうか」という問いを作者は本書の中で話の軸として投げかけている。ようは、結局Yは正義だったのか、悪だったのかってことだ。オウムは自分たちとはかけ離れたような理解のできない思考回路を持つ集団だったのかどうかということだ。それを結局作者ははっきりと明示しなかった。作者の人としての好意は何度も描いていはいるが、じゃあ結局、いいやつだったとも悪いやつだったとも言っていない。

 

そのことが、この熱のある生きた文章と、生きた構成と組み合わさって、なんだか生きるってこういうことだったと私に思わせたのだった。

 

生きていて、いろんなことに、慣れたり、わかったような気になったりすることがあるけど、答えに近づいたり、歳を重ねるにつれて考えが深まったりするような気になるのだけど、結局、なんなんだかわかったことなんていっこもなかった。でもなんかわかんないから楽しいんだ。わからなくてよかったのだ。それは、でも何も知らないこととは違う。

 

わかったような気になって明言された文章よりも、わからないことはわからないと言える人の意見というのは何倍も誠実だ。そういう目的地につくまでの列車の中で見たことを丁寧に教えてくれる物語がわたしは、嬉しかった。

 

 

そんなこんなで、書きたいことが書ききれなかったので、次回に続きます。

 

※私はサリン事件のとき、子供だったので何も覚えていない。私が触れる内容はあくまでも本の中で描かれている内容についてのみで、それ以上の意見はありません。