引っかかるいしころ 「はだしのゲン」
例えば美味しいものを普段食べて美味しいと味わっている日常があるとして、
普段はそういう鮮やかで美味しい世界だけれども、
時々ふといしころがどこかしらの身体に引っかかっていることに気づくことがある。
美味しいものを食べても、胃の中にいしころが突っかかり、ひりっとする。
私にとってそういう、何か見過ごしてはいけないのではないかと思う気になる、得体のしれない、メスなしでは身体から取り出すことのできない痛い、不快なけれども気にしないこともできる、、、
「戦争」がそれだと思う。
戦争のことは日常で覚えておく必要がない。
むしろ忘れたほうが私の幸せと社会の幸せな気がする。
でも、時々凝視して、正体を突き止めなきゃと思う時がある。
それが今で、「はだしのゲン」を読んでいる。
我ながら渋い。
1,2巻を読んで、気づいたのは
戦争を反対していたゲンの父は絵描きだったこと。
(絵付師みたいな感じで描かれていた。)
芸術家は「炭鉱のカナリヤ」だと、思う。
繊細な感覚を持つ鳥は、科学や体力などのマッシブな方法以外の方法で、危機的状況を他者に知らせる事ができる。
それが、ゲンの世界でも起こってるように思えた。
漫画の中では、非国民と言われるのが怖いもの、もしくは国の政策に疑問を持たないものが多くの国民だった。
また、朴さんという社会上弱い立場をゲンの父は社会にのまれずに国籍問わず、対等な人として扱っていた。
ルールや同調圧力に惑わされず、自分が正しいと思うことを貫く父。
ゲン(愛蔵版)の1巻の原爆が落ちる前の景色も、現代の暮らしからしたら、とても暴力に満ちていた。
やったらやりかえす。力で馬鹿にされないために、噛みつく。
戦争下だったから暴力的だったのか。それとも戦争が始まる前も、もっとなんというか動物的な本能的な生活が普通だったのか。描かれていないからわからない。もしくは、もしかしたらこの作者のまわりがそうだっただけかもしれないし。とにかく、戦争だけが悪いことだったのか、現代と違いすぎて今はわからない。
、、、思うのは、確実に私達現代にまだ戦争の余韻が残っているということ。戦争はなあなあにならない。平成になって、日本は文化も栄えてカラフルになったけれど、どこかに灰色の抑圧された消された景色が残っている。贅沢は敵と言っていた日本は反動で贅沢と気晴らしが生活の目的になってはいないか。
この歪んだガラスみたいな世界は、有耶無耶にできることはでは無いと思った。
作中に、ゲンの父が「日本は人が簡単に死ぬ国になってしまった」と言っていた。それは、若者が兵士に名乗りを上げていることについて、そして的に降伏することよりも、自殺をするほうが良しとされていたときのことなんだけども。
それって今も続いていないか。
会社を辞めて実家に帰るくらいなら、と思って終止符を打っている人は今もいないか。それってあのときと何も変わっていない。
失敗したって死ぬよりいいんだ。
日本人にとって恥ってなんのことなんだろう。
おかしいよ。
はだしのゲン愛蔵版2巻の寄文によると、はだしのゲンは当時少年ジャンプの漫画で、大人や出版社は、そんなによく思っていなかったらしいが、子供たちにとても人気の漫画だったそうだ。途中で打ち切りになってしまったらしいが、惜しまれて単行本化された。、、、ということは、もしかしたら当時の大人は、戦争を悪いものだと戦後も思っていなかったのかもしれない。それどころではなく、上も下もわからない状態だったのかもしれない。ただ無邪気で、分別をまっすぐ単純に考える子供たちが先に、戦争ってよくないことじゃんって気づいたのかも。
楽しい方に目を向けることは出来るし、出来れば前を向くことに集中したいけれど、この石ころを無視したくない気持ちがある。
今はただ引き続きゲンを最後まで読みたいと思っている。
私を生かしてくれた、当時戦争に耐えてくれた先祖に感謝しながら生きたい。
戦争は良くないことだけど、事実だから、それそのものを否定したくない。
感謝して乗り越えたい。