ひどくわたしのパースペクティブ

主観的で読み返すとこりゃひどいという内容も残しておきたいと思い始めました。恥ずかしくても消さないというのがルール。げいじゅつか。

「生きるということ」

「生きるということ」ってどういうことか。

そういうことを問う写真を撮りたい。

作りすぎたイメージは欲望。

ツクリアゲラレタ理想はまるでナルシスティックな自撮りを並べているようで不気味で不愉快。

自分一人で生きたわけでもないのに。

 

透明な作品が好きだ。

私も透明でありたい。

透明で傲ることなく強くありたい。

 

理想のイメージが美術館にない。

私が作ると決めた。

引っかかるいしころ

例えば美味しいものを普段食べて美味しいと味わっている日常があるとして、

 

普段はそういう鮮やかで美味しい世界だけれども、

時々ふといしころがどこかしらの身体に引っかかっていることに気づくことがある。

 

美味しいものを食べても、胃の中にいしころが突っかかり、ひりっとする。

 

 

私にとってそういう、何か見過ごしてはいけないのではないかと思う気になる、得体のしれない、メスなしでは身体から取り出すことのできない痛い、不快なけれども気にしないこともできる、、、

 

「戦争」がそれだと思う。

 

戦争のことは日常で覚えておく必要がない。

むしろ忘れたほうが私の幸せと社会の幸せな気がする。

 

でも、時々凝視して、正体を突き止めなきゃと思う時がある。

 

それが今で、「はだしのゲン」を読んでいる。

 

我ながら渋い。

 

1,2巻を読んで、気づいたのは

戦争を反対していたゲンの父は絵描きだったこと。

(絵付師みたいな感じで描かれていた。)

 

芸術家は「炭鉱のカナリヤ」だと、思う。

繊細な感覚を持つ鳥は、科学や体力などのマッシブな方法以外の方法で、危機的状況を他者に知らせる事ができる。

 

それが、ゲンの世界でも起こってるように思えた。

漫画の中では、非国民と言われるのが怖いもの、もしくは国の政策に疑問を持たないものが多くの国民だった。

 

また、朴さんという社会上弱い立場をゲンの父は社会にのまれずに国籍問わず、対等な人として扱っていた。

 

ルールや同調圧力に惑わされず、自分が正しいと思うことを貫く父。

 

 

 

ゲン(愛蔵版)の1巻の原爆が落ちる前の景色も、現代の暮らしからしたら、とても暴力に満ちていた。

やったらやりかえす。力で馬鹿にされないために、噛みつく。

 

戦争下だったから暴力的だったのか。それとも戦争が始まる前も、もっとなんというか動物的な本能的な生活が普通だったのか。描かれていないからわからない。もしくは、もしかしたらこの作者のまわりがそうだっただけかもしれないし。とにかく、戦争だけが悪いことだったのか、現代と違いすぎて今はわからない。

 

 

、、、思うのは、確実に私達現代にまだ戦争の余韻が残っているということ。戦争はなあなあにならない。平成になって、日本は文化も栄えてカラフルになったけれど、どこかに灰色の抑圧された消された景色が残っている。贅沢は敵と言っていた日本は反動で贅沢と気晴らしが生活の目的になってはいないか。

 

この歪んだガラスみたいな世界は、有耶無耶にできることはでは無いと思った。

 

作中に、ゲンの父が「日本は人が簡単に死ぬ国になってしまった」と言っていた。それは、若者が兵士に名乗りを上げていることについて、そして的に降伏することよりも、自殺をするほうが良しとされていたときのことなんだけども。

 

それって今も続いていないか。

会社を辞めて実家に帰るくらいなら、と思って終止符を打っている人は今もいないか。それってあのときと何も変わっていない。

失敗したって死ぬよりいいんだ。

日本人にとって恥ってなんのことなんだろう。

おかしいよ。

 

 

はだしのゲン愛蔵版2巻の寄文によると、はだしのゲンは当時少年ジャンプの漫画で、大人や出版社は、そんなによく思っていなかったらしいが、子供たちにとても人気の漫画だったそうだ。途中で打ち切りになってしまったらしいが、惜しまれて単行本化された。、、、ということは、もしかしたら当時の大人は、戦争を悪いものだと戦後も思っていなかったのかもしれない。それどころではなく、上も下もわからない状態だったのかもしれない。ただ無邪気で、分別をまっすぐ単純に考える子供たちが先に、戦争ってよくないことじゃんって気づいたのかも。

 

楽しい方に目を向けることは出来るし、出来れば前を向くことに集中したいけれど、この石ころを無視したくない気持ちがある。

 

今はただ引き続きゲンを最後まで読みたいと思っている。

 

私を生かしてくれた、当時戦争に耐えてくれた先祖に感謝しながら生きたい。

戦争は良くないことだけど、事実だから、それそのものを否定したくない。

感謝して乗り越えたい。

ひみつの欲望

花はめらめら美しい

花は私が見ずとも 美しく咲き

私が描かずとも 凛と咲く

 

滝はごうごう美しい

滝は私が見ずとも 絶えず流れ続け

私が撮らずとも 水や空気を清める

 

私は世界が美しくあることを知りたい

がしかし、

私は世界を美しいと思えるこの柔き心に

本当は触れたい

 

わたしはうつくしきせかいのうつくしきこころ?

わたしはめらめらごうごうとするうつくしきこころ?

 

そのために私は創るのだ

生きるこころを抱きしめるために

 

__________「ひみつの欲望」

「きのう何食べた?」

映画「きのう何食べた?」を映画館で観た。

 

なぜかというと母から誘われたから。

 

母にはこれといった趣味はあまりなく、しいて言えばショッピング、化粧、ファッション、時々ゴルフを友達と楽しむことくらいで、特にこだわりは持っていないタイプ。家には、母の所有する漫画や小説は一切ない。そんな文化的な趣味に執着しない母が映画を見ようと誘ってくるのは稀で、私は初めは関心がなかったのだけど、珍しい誘いにどのような物語なのか気になって見に行ったのだった。

 

映画の冒頭から、和やかなカップルが他愛のない会話をして料理や日々の時間を楽しんでいる。その姿はリアルなゲイカップルの日常にも思えたし、それでいて、どこか男女二人のカップルのような場面もあった。そして、不思議と女性二人の友人同士が同居している風景にも似たように感じるところがあった。

 

私には友人に同性愛者がたくさんいる。ゲイ、バイセクシャルレズビアンなどの人たちのリアルを知っている方だと思う。美術関係には同性愛者が比較的多い。性的嗜好で簡単に区別はできないが、強いて言えば、彼らは感性豊かな、繊細なそれでいてビビッドな感覚を持つという印象が強い。それでいて、きれいな側面だけでなく人一倍性に、人生に、貪欲な一面なども人によっては目にしたこともあるし、思い悩む人もいれば人生を謳歌している人もいた。多くは、ステレオタイプが通用しない場面に一度は遭遇したといった感じで、既存の答えではなく自分の答えを導き、選択してきた彼らの意見はシンプルにおもしろい。

 

私が気になることは、まず、なぜゲイカップルのドラマが母という一般的な感性の持ち主に届くくらいに流行しているのかということと、実際のゲイカップルの生活とこの作品で語られるゲイ事情はどれくらい似ているのかもしくはかけ離れているのかということだ。

 

BLという文化がある。男性同士の色恋を描いた主に(私が知っている限り)漫画のジャンルで、私が小学生の頃にはすでに漫画好きのいわゆるおたく予備軍的な友人が私にその文化をもたらしたため、少なくとも20年くらいはそのジャンルが(少数派ではあるものの)メジャーな存在だったと思う。

 

ただ、当時は本屋の一角に、物好きの探求者たちが楽しむように、こっそり置かれているという状態だった。ちゃお、りぼん、なかよし、マーガレット、花とゆめの単行本が少女漫画の棚に堂々と並ぶ中、だいたい、花とゆめの奥が大型女性向け漫画になっていたり、やや主婦向けの漫画につながっていたりして、その先に、性的描写のあるものがあり、その先にひっそりとオリジナルのBLとワンピースやナルトなどの既存のキャラで作られた同人誌のコーナーがあった。

 

ついでに言うと、私の小5時代ではすでにインターネットが普及しており、クラスのませていた少女漫画好きの友達が、すでに犬夜叉の創作小説に行き着いていた。犬夜叉カゴメという実際の漫画のヒーロー・ヒロインとカップルについて、ファンが妄想を巡らせたもの、また犬夜叉と別のキャラという本作では成就しないカップルを妄想上で成立させたもの、また主人公じゃないサブキャラ同士で成立させたものがあった。それらは、その子が家のプリンターで印刷し、私を含む5人位のませた女の子にだけ回し読みを許させた、秘密のおこないであった。そして、そのなかでも、私ともうひとりのオタク予備軍先鋭部隊にだけ回ってきたのが、犬夜叉弥勒という男性同士のカップルのいいちゃいちゃする小説だったのだった。それがわたしが覚えているはじめてのBLとの出会いだった。

 

BLは、そのように小5くらいから私の身近なものであったが、残念ながら私がハマることはなかったジャンルだった。その理由を考えると、それはBLというジャンルが私にとって文学性が高すぎたからだった。美しすぎるのだ、耽美的というのか、理想郷すぎるのだ。それが私の正直なその世界に入り込めない理由だった。

 

BL系のもともとの主な消費者は女性だと思う。女性が、自分という私生活、リアルを抜きにして、自分をある種棚に上げて、描かれている世界がボーイズラブだ。それは宝塚やひっくり返したら歌舞伎にも近い世界観なのかもしれない。別にBLに女性たちはリアルな関係を求めてきたわけではないのだ。本当の新宿二丁目事情や、性生活が観たいわけじゃない。肉迫したものや、ましてやアダルトビデオのような直接的な行為が見たいわけではないのだ。

 

私は、それはどちらかといえば、文学的世界だと思う。現実世界ではなく、比喩や象徴の世界。ロミオとジュリエットが近所の幼馴染じゃだめだった理由。普通の和やかな恋愛ではなく、悲恋でなくてはならなかった理由。それはすべて、現実がかなわない儚さ、しあわせな日常では体感し得ない深い強い感情。それが、文学作品だからこそ、人々は体感できる。

 

また、男性とは、ある視点から見ると、とても純粋でまっすぐな性質だと思わされることがある。完璧を追い求め、感情に動じないよう理性で動く美しく儚い生き物だ。実際問題ではもちろん、いろんな性格の人がいるだろう。ただここで言うのは、あくまで、物語の中で活躍する際の役割としてそういう特徴があると言うことだ。それに対し、女性は現実的で、ある種何者にも打ちひしがれない強さを持っている。パートナーの死後、長く行き続けられるのは女性だと聞く。男性が描く女性像というのは、儚く、夢見がちで、純粋で潔白で、まっすぐに描かれることもあるだろう。しかし、女同士は地の底で繋がっているから、知っているのだ。女は文学に登場するには強すぎると言うことを。本当は儚さの真反対にいる生き物だということを。だから、突き詰めると、女性は女性に対して夢を描けない。

 

それでは、この「きのう何食べた?」は典型的なBLなのだろうか?答えは、多分ノーなのかも。それが、新しいこの2021年で流行している理由で、文学に疎い母にも届いた理由なのだ。そう考えている。

 

私は男性でも、ゲイでもないので、あの生活がリアルなのかどうかはわからない。ちょうどそのような生活を送っています!というカップルもいるかもしれない。ただ、(女性のヘテロの)私が感じるに、あの世界観はゲイカップルを現実的に描きたいものではないのかもしれないと思う。それではBLのように理想の関係性を描いているかというと、それも違う。それではなにかというと、ゲイカップルを通して、どちらかというと現代の女性の立場を現実に近い感性で描いている作品だと感じるのだ。

 

40代のゲイカップル、、、という設定上、このドラマに出てくるテーマは結婚していないことや、子供が今後持てないであろうこと、老いたときにパートナーがいるかもしれないし、もしかしたら一人で最期を迎えるかもしれないこと、などが議題に上がってくる。このことは、とても普遍的なテーマで、別にゲイだから、男性だから直面するテーマではなく、女性においても言えることなのだと思う。もっと言えば、結婚してようがいまいが、少子化は社会問題だし、最期はどんなひとも必ず迎えるわけだから、さらに言えば、性的な特徴は関係なく見れる。

 

そう仮説を建てたときに、なぜゲイカップルなのか、と考えたときに思うのは、やはり現代の社会上の性的役割が薄れている点が挙げられると思う。シロさんとケンジは両方働いているし、家事もこなしている。その点で、二人の関係は対等で、性が同じ方がよりその対等な関係を強調できるのではないか。女が男を立てるとか、男が飲食代を多く払うとかそういうことがない世界、それが物語上の同性愛である必然性なのではないだろうか。ゲイカップルとは、姓を剥奪してみることのできるキャラクター設定と言えるのかもしれない。

 

社会上では弁護士という理知的な、ステレオタイプで言えば、男性的な職に付きながらも、家ではステレオタイプで言えば、女性的な料理をこなす物静かなシロさん。社会上では美容師という、中性的な職につき、家では料理を作ってもらい、その代わり掃除などの家事をこなす、フェミニンな口調のケンジ。この二人も、男性というキャラクターを外せば、バリキャリで家では家庭的な女性と、所作はフェミニンだけど、多分性にアグレッシブで細かいことは気にしない女性、と見えなくもない。どちらも女性が感情移入することができる。

 

ケンジのキャラは、所作が、私の母は「見習いたい」と言っていたくらいに、女性らしい。いわゆる歌舞伎的な女性よりも女性らしい演技。この女装(女に変装している)状態こそが、現代の女性のリアルだということはないかと考える。私は、女性というのは、意識的に「なる」ものだと考えている。女性に生まれて、ぼーっとしていても女性でいられるのではなく、初潮を迎え、化粧や所作を身に着け、女性に「なる」のだ。そして、性の役割を剥奪された現代の女性は自分を無意識に男性と対等、同等とみなし、その上で女性という性に「女装」しているように認識しているのではないだろうか。つまり、ケンジは社会を生きる自分を男性として認識してしまう現代の女性の心理そのものなのではないだろうかと考えた。

 

〜〜〜〜〜

このドラマ・映画では、ゲイカップルの物語ですが、今までの社会の常識のこうあるべきという結婚や女性の役割と、社会の中で、男性と同等の活躍を求められがんばってきた役割のはざまに揉まれて生きる特に女性の心理を描いた作品のかもしれないなと思いました。

 

イカップルでも、結婚していても子供がいても、関係なく、日々の料理と食事をを軸に大事に毎日を大事に生きることの大切さを描いている、どんなひとも心温まる映画だとも言えます。私は心が温まりました。

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※この文章は、映画とドラマの「きのう何食べた?」についての感想文です。

漫画は読んでおりません。あしからず。

「逆さに吊るされた男」1

久しぶりの更新になった。

前回27歳だった私はあっという間に29歳になった。

 

それはそうと、今回はこの本を読み、文章を書きたくなったので、この本について書いてみようと思う。

 

「逆さに吊るされた男」/ 田口ランディ

 

この本は、地下鉄サリン事件実行犯で死刑囚のYとその交流者の作家の対話を描いた物語となっている。作者の実体験をもとに構成された物語。

 

重苦しい題材で時々その重すぎる対話が読書後の私の意識も襲ってくるほどに、とても脳内に入り込んでしまう「生きた文章」をかく田口ランディさんの文章は、とても魅力的だ。

 

私は文章には2種類あると思う。

「死んだ文章」と「生きた文章」だ。

文学やよくある学術的に良しとされる文章は、私の中で「死んだ文章」。冷静で、客観的で論理的で、構築された文章。作り込まれていて、隙がない。死んでいるから価値がないってわけではなくて、遠くで輝く星のように、変わらない魅力がある。

 

それに対し、「生きた文章」は、私の身体を捉える体感的な側面のある文章で、まちがっているとかただしいとかじゃなくて、そのライブ感がもたらす、そのとき感じた熱が、そのまま乗り移ったように私に伝わってくる。隙があって、無防備で。でもそれが悪いとか弱いとかじゃなく、無邪気で、命の煌きのあるようなそんな血乗っ通った文章。谷川俊太郎さんの詩もそういう感じがする。

 

エロスとタナトスのようにたぶんこれらはどっちも素晴らしいし、陰と陽の太極図ようにどちらも互いのエネルギーをはらんでいるのだろう。

 

とにかく私は文学に対して素人なので、これ以上どう伝えればいいかわからないいが、そのような後者の特徴を持った作者の文面は、一度読み始めるともう私の好奇心を掴んで離さない。本を開いたら最後、ぐっと首元をひっぱられてとまらなくなる。

 

そして、私は文章の面白さに引き込まれて、「ああわたしも文章が書きたい」そう思えてきたのだ。

文章の良し悪しは、詳しい知識と経験がないが、絵画についてはわかる。いい作品というのは、わたしも絵が描きたいと鑑賞者に思わせるのだ。見ている人の経験値がどうであれ、その人に絵を描きたいと思わせる。それは、心の底から、生命力をぶちまけて絵を心ゆくまで楽しそうに、素材を慈しむように描くから、それが作品を通してぐおんぐおん、またあるときは、すぅーっと伝わってきて。ああどうしても、私は羨ましい、そのように生命を燃やして絵が描きたい、そのように生きてみたい!!と思わせてしまうのだ。

 

田口ランディさんはとにかくそういうような、心が生きていないと、生命を燃やしていいないとかけないような、文章を書く。それが私にとってすごく魅力的な作家さんなのだ。

 

(そういえば、パウロ・コエーリョさんもそのような文章を書く、いや世界観が少し似ているのかもしれないと思った。その類似点については、また文章化してみたいと思う。)

 

私が読んだ田口さんの著書は今の所3冊。

1.「水の巡礼」2006年発行

2.「逆さに吊るされた男」2016年発行

3.「コンセント」2000年発行

 

「水の巡礼」はエッセイ的なありのまま感じたままのむき出しの文章だった。日記的で、飾らない。ある意味で、物語化しようという気がないので、なんだろう、ちっとも死んでいない。それは私にとって、普遍的な永遠の形にとどめようという駆け引きがなくてちょっと寂しすぎる。そしてセクシーじゃない。(内容はおもしろいです!)

 

最近読んだ「コンセント」は、彼女の処女作。とても読みやすくて、まとまりのある構成は、プロの小説として整えられた形跡が伝わってきた。要所要所にまとめあげるための伏線が張ってあったり、物語を一筋の繋がりにそったものにしようという配慮とやさしさが見える。でも、戦いがない。

 

それに比べると本作は、その2つの真ん中。つまり、生きている丸出しの文章と、整えられた読みやすい物語の間をどちらに偏ることなく、ふらふらと行ったり来たりしながら、偶然と必然をないまぜにしながら作られた構成は、文章としておもしろい。作家としての田口ランディさんの生き様がこれでもかと、押し出されていた。後半の、死刑囚に向けられた手紙は半ば強引で、場当たり的な展開にも思えるが、その勢いが、勇ましく、わたしはそのページをめくる手を止めることができなかった。このような予測不能な展開が、この小説を生き物のように、なんとも捉え難い性質にする。

 

勝つか負けるか、生きるか死ぬか。

 

そんな賭けのような文章表現が、地下鉄サリン事件の死刑囚のYという、複雑な人物像を語る物語上で繰り広げられる。

 

もうひとつ、「逆さに吊るされた男」を書いている田口さんの視点で興味深いと思ってる点がある。それは、「彼女はジャッジをしない」ということなのだ。ここからは多少ネタバレになるが、「Yは温厚な性格をしているが、人間の裏にある闇がYにはあったのかどうか」また、「この死刑囚は一般的な、罪を犯したことのない人々とは違う狂った、異常な部分があったのかどうか」という問いを作者は本書の中で話の軸として投げかけている。ようは、結局Yは正義だったのか、悪だったのかってことだ。オウムは自分たちとはかけ離れたような理解のできない思考回路を持つ集団だったのかどうかということだ。それを結局作者ははっきりと明示しなかった。作者の人としての好意は何度も描いていはいるが、じゃあ結局、いいやつだったとも悪いやつだったとも言っていない。

 

そのことが、この熱のある生きた文章と、生きた構成と組み合わさって、なんだか生きるってこういうことだったと私に思わせたのだった。

 

生きていて、いろんなことに、慣れたり、わかったような気になったりすることがあるけど、答えに近づいたり、歳を重ねるにつれて考えが深まったりするような気になるのだけど、結局、なんなんだかわかったことなんていっこもなかった。でもなんかわかんないから楽しいんだ。わからなくてよかったのだ。それは、でも何も知らないこととは違う。

 

わかったような気になって明言された文章よりも、わからないことはわからないと言える人の意見というのは何倍も誠実だ。そういう目的地につくまでの列車の中で見たことを丁寧に教えてくれる物語がわたしは、嬉しかった。

 

 

そんなこんなで、書きたいことが書ききれなかったので、次回に続きます。

 

※私はサリン事件のとき、子供だったので何も覚えていない。私が触れる内容はあくまでも本の中で描かれている内容についてのみで、それ以上の意見はありません。

生き方に迷う27歳。

こんにちは。

突然ですが、私は生き方に迷っています。

 

巷では、27歳というと、節目の年だと言われていたりします。

 

例えば、27歳でカート・コバーンなどのたくさんのロックスターが亡くなったことは有名な話ですが、

それはいろんな解釈があると思いますが、皆、大人になることに希望を持てず、

現実を自立した立場として生き抜くことを恐れた結果なのではないかと思っています。

なんというか、平凡でない人生、刺激的で、悪を演じてみたりする、理想や夢に満ちた世界、けれどそれだけでは生きられないと気づく歳なのかな。

 

例えば、西洋占星術でも、27歳あたりは、自立を促される時期だと言われています。

サターン・リターンという試練の星である土星(saturn)が、生まれた時に位置した場所にもう一度戻ってくる(return)という時期で、27~29歳前後だと言われています。それは、成人式のような通過儀礼のようなものらしいです。成人したといえども両親の常識ややり方で行なっていたものを自分のやり方に戻すテコ入れの期間だそうです。

 

 

サターン 土星の心理占星学 新装版

サターン 土星の心理占星学 新装版

 

 

私の高校の時の古文の先生は、人生を時計を用いて例えました。

人生を1時間のテレビドラマだとすると、1歳は1分である。

15歳は15分、ドラマだとすると、15分は起承転結の起である。

30歳は30分、承。人生の山場。60歳は60分、つまり結。

60歳のあとは、結末を終えた後のラッキーな猶予だと言っていました。

そうすると、私の人生ドラマも山場に差し掛かっているのです・・・。

 

きっと、古文の先生の元になったであろう、有名なこのフレーズを載せておきます。

子 曰く 「吾れ十有五にして学に志ざす。 三十にして立つ。 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳に順したがう 七十にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず。」    

孔子論語の一節です。

三十にして立つ。つまり論語にも、20歳が30歳が自立(而立)の年であると描かれているわけですね。

 

そう考えると、20歳で成人を迎えるのは、あくまで、社会的な一面であり、精神的な意味においての自立は30歳というのは東洋の文化でも西洋の文化でも似たような意識があると言えるのではないでしょうか。

 

超訳論語

超訳論語

 

 

 

長くなってしまいましたが、これからは、精神的、経済的、さまざまな視点で自立について考えていきたいと思います。

 

なぜわざわざ自立について深く考えたいのか、そう考えました。

それは、きっと自由を手に入れるためです。

自由のために自立することについて考えていきます。

 

 

はじめまして。のいきごみ。

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はじめまして。

92生まれの女性です。

私は悩むのが趣味だね、と言われるくらい考え事をするのが好きです。特に建設的に悩む時間を活かしてるかと聞かれたら、そうでもないです。

人間関係では気を遣いまくって疲れるので、ここでは、あまり気遣いせず自分のために記録を残していければいいなと思います。今の所。

悩みを書き、ただ悩んだり、好きな本を紹介したり、ためになったことを紹介したりします。

私はアーティストです。でも飾りに飾ったアーティストを演じるのは苦痛なので、すっぴんのまま書きます。だからただの人です。ただのアーティストです。

自分の幸せのために書きます。

そして、同じように考える人に出会ったり、同じように悩んでる人のためになったらとても素敵なことだと思ってます。